映画『長江』その2

昨年6月に、映画『長江』 について書きましたが、きのう(2004/3/29)再びそのDVDを観ました。昨年は本編をざっと見ただけでひとに貸してしまって、ようやく返していただいたものですから……。

見終わって、改めて中国の歴史の長さや文化に対して畏敬の念を感じました。映画が公開されたのは1981年で、記録映画としては優れた価値のあるものだと思います(1981年文部省選定作品になっている)。

三国志の話や、『春望』で有名な杜甫の漢詩『登岳陽楼』(がくようろうに登る)が詠まれた場所なども出てきて、そうしたものに疎い私でも、もっと中国文学を知りたいという気持ちが湧きあがってきました。

また、人間にとって信仰とは何なのだろうか、ということを今回も考えさせられました。岩肌に掘られた巨大な石仏群を見ると、数千年前にそれを掘った人々のことが思われますし、撮影された二十数年前、すでに風前の灯火となっていた道教の、寺にこもった数人の導師たちの信仰や人生……。また、長江(揚子江)の上流、チベットに近い三千メートル級の山、峨眉山の山頂で一心不乱に経文を唱えている人々。

道教にも免罪符のようなものがかつてあったのだそうです。また、映画の中では扱っていませんでしたが、調べたところによると道教には仙人願望があって修行を積めば、不老長寿や千里眼、水上歩行、空中飛翔などの能力が身につくと考えられていたそうです。カトリックの免罪符といい、不老長寿といい、宗教にはいろいろ共通するものがありますね。

そんなことを総合的に考えてみると、人間とは他者からの是認を得たい生き物なんだなあと思います。でも、他人に認められるようなひとかどの人間になりたいと思っても、大部分の人にとってはなかなか思うように実現しないことです。たとえ一時的に有名人になったとしても、その人気は永続するとは限りません。でもそれが神という目に見えないもの、見えないからこそ、その人好みのイメージを持つことがある程度許される、そういう存在からの是認であれば、考えようによっては誰でも得られ、安心感を抱けるのかもしれない。

それにしても「天知る、地知る、子知る、我知る。何ぞ知る無しと謂わんや」*と言うように、人間には自分が誰かに見られているような意識がどこかにあるもので、これはまったくもって不思議な感覚です。それを人は神と呼んだり、天と呼んだり、仏と呼んだりする。普段は意識していない人でも、たとえ自分は無神論者であると公言している人でも、極限状況に陥ると神仏に頼ろうとする。ひとの心、精神とは不思議なものだと思います。

ところで、昨年これを見てから幾らもたたないころ、映画を制作したさだまさしさんの次のようなエッセーを読みました。

実は密かに僕が待っているものがある。

中国で取材したフィルム『長江』なのだ。"たかが歌手の道楽で"と初め言われて、NHKでの放映以後"まぁまぁがんばった"とわずかに言ってもらった、あの『長江』のことである。

映画やTV放映されたものは、全体のほんの一部に過ぎない、という事を誰も知らない(なにしろ金がなくって、当時すぐに現像できなくってあわてた位だ)。こいつを見せたら、あっというのがまだまだある。それが見てもらえる日を実は待ち続けている。

 『長江』はひとまず終った、というのは、結論を急ぐ故の結論であって、僕には違う。むしろ、未だこれからの楽しみの方が大きいのだ。

外国でちっと話題になったりすれば、残りを放映させてもらえるチャンスもやって来るだろう。んで、じっと待っている。

あのフィルム取材のあと、借金王になった頃「百年后に"ああ、こんなバカがいたのか"と言ってもらえるはずだ」と言ったのは、少しも負け惜しみでない。「あれだけ借金するなら、ポンとアフリカへ送ったら……」と、現在なら考える処だが、それは認識の問題で、今更どう考えても始まらない。んで、じっと待っている。

「信じたものを待つ」のは辛くない。

そうか、待つには信じるのがいい。

 

 映画『長江』は、わたしも価値ある映画だと思います。どなたかテレビ局の方、是非是非、映画に含まれなかった部分も見られるようにしてくださいませんか?


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